昭和49年09月04日 朝の御理解



 御理解第 65節
 「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。」

 本当の(       )かなと言うか、のんびりと言うか。私は金光様の御信心がこう、芯から分からせて頂いたら、まあ芯から分かるという、まあ、大体身に付いて来たというでしょうかね。たら確かにそれこそ春の(梅?)のような、豊かな揺ったりとして、そういう日々が過ごせれるようにならなければ、金光様の信心を頂いておる値打ちはないと思う。
 ほんにもう忙しか、忙しかと言うて仕事に、言うなら追いまくられる。仕事せんで良いという事じゃありませんよ。けれどもそれがね只これしこ働きゃ、是だけになると言った様な計算づくと言う様なものではない。ね。私はその65節は、そう言う様な、例えば空に雲のないほんぞら温い、自分に都合の良いのが良い日柄じゃと言う様なね。ほんぞら温い、自分の都合の良い、自分に都合の良い日常生活が出けれる。ね。
 それにはです例えば日柄方位は見るに及ばぬと仰せられるのですから、そういう間違った迷信的なものは、もうさらさらと、心に掛からずに捨てきって行けれるというおかげを頂いてこそ、初めて金光様の御信心が身についたと言う事になるのじゃないでしょうか。事に引っかかる。揉め事にどうも捉われる。ですからもう次の自由が利かないのです、囚われますから。捉われないそれこそ、自分に都合の良い事が、都合の良い事という(   )を、輪を広げておかげを頂いて行きたい。
 言うならばです、金光様の御信心をしとると、もう自ずと馬鹿になる、阿呆になれれる御教えだと思うです。ね。ですからおかげを頂くはずです。ね。いかにもはあ暢気だと、こう言うかも知れませんけれども、本当に安心して暢気でおれれると言う位幸せな事はないです。さあ明日食べるお米がないが、どうしようか何て。よし明日食べるお米がなかってもです、おかげが頂けれると確信出ける所に、のんびり行けれるんです。
 それを自分でこうして、ああして是だけの事はしとかなきゃ、いやあれをしてはいけない、これをしてはいけないというのじゃなくて、今までいけないと思うて負った様な事でも、神様の御恵みの物として、御の字をつけて御事柄として受けて行くようなね、もう本当に有り難いものばっかりという生き方が出けるのが金光教の信心だと思うです。ね、ほんぞら温い。ね。自分で都合の良い、自分に都合の良い事ばかりになって来る、そういう世界を現して行く。
 そういう世界を自分の心の中にも、又は家庭の中にも広げていく。それを社会にも広げていく。もうあの人が見えておると、何とはなしにゆったりと心まで豊かになると言った様なものがね、溢れる様にならなきゃいけない。私はここ二十五年間の信心というのは、本当に人が助かる事さえ出来ればと言うのですから。これは条件がなかった。教祖様の御信心は、人が助かる事さえ出来ればである。例えば皆さんがね、身内の方やら、まあ知った方に病人なんかがありますと、その方の事をお願いをなさいます。
 不思議におかげ頂くんですね。もう医者が見離したと言う様な病人でもです、段々段々おかげを頂いて来るんです。けれども本人は只お願いしてあげとる、貰いよるげなというぐらいな事で、信心になる訳でもないけれども、それは人が助かる事さえ出来れば良いのであるから、わざわざ合楽にお礼に出て来なくても、なら信心が分からないなら分からないでも、もうその助かりさえすれば良いというのが、今までの信心でしたよ。
 で教祖の神様の、私はあの人が助かりさえすればというのは、そう言う事ではない。これは、人間が助かると言う事なんです。今までは例えば難儀な問題を持っておられる人が、その難儀から開放される。ね、病気なら病気が只第三者の、ここにお参りをしておる御信者さんからお取次ぎを頂いてもろうておかげを頂く。もう私はそれで良いと思うておったです。問題は助かってさえ貰えばそれで良いと思ったです。
 ところが最近はそれではいけんのです。本当に助かって貰わなければその人が。だからその人が本当に助かって貰わなければならない。それが今の合楽示現活動にお互い参画させて頂くと言う事なんですね、例えばね奇跡的におかげを頂いて助かった。ね、だからその助かりだけではいけん。その助かりを言うならば糸口としてです、その人が本当に神様のね、働きを信じてそこから助かって行く道を求めて行く。
 そこで私は皆さんがもう本当に今毎日、何十名かの新たな信者さん方がお参りになり、信者というよりも、まあ求信者とでも申しましょうかね。信者さんじゃありません。求信者ですね、そういう方達のお取次ぎをさせて頂いてです。おかげを頂いてもう一偏きりで終わると言った様な事ではなくてです。私はそれがその事が大事だと思うです。例えて言うと先日からね、秋山さんが交通事故に遭われた。追突されなさった追突されたその相手の方が、北野警察に勤めておられる方であった。
 話を聞くともう奥さんが大変な病気であった。もう本当にもうその事を思うたら心が憂鬱になってね、日頃は運転には自信のある方がです、その事ばっかりを病人の帰りに考えておられたので、前に止まっておる車に気がついておったけれども、うかつに追突したというお話になった時に、秋山さんが話しておられます。もうこう追突されたと言う事も何かのご縁ですよと。
 今日私共はお月次祭からの一家中で帰りでございますが。貴方がもしあのあの、まあ信じなさるならば、疑いなさらんならばです、この御神米を差し上げますから、奥さんに差し上げて下さい。また奥さんの事もお願いをさせてもらいますから。もうそんな疑いとかそんな事はしません。ならお願いして下さい。もう不思議におかげを頂いた。もう愈々退院間近にと言うて3~4日前。今久留米に転勤になっておられますが、時々朝の御祈念にお参りになります。
 そして矢張りその事をからです、色々なまだ家庭の問題とか、娘さんの問題とかのお願いに見えるんですけれどもです。言うならばそういう不思議な縁で、御縁を頂いておるのでございますから、例えばその後の秋山さんの信心が大事なんです。今晩は月次祭ですよと、例えば誘いを掛けてあげるとか。今日はこげな会合があって、とても有り難いお話が頂けれるんですよとか。ね、そしてそのお願い事が成就したというだけではなくて、これから本当にその方も、奥さんも娘さんもいわゆる助かって貰う。
 人間が助かられる為のお導きがこれからいるのです。ね、もう一偏示現活動にと、おかげの泉を、なら買うてもろうた。ね、その後どうでしょうか。いやいっちょん分からじゃったと。そんならあのどこ(   )が分からなかったですかと、例えばそのまっ教えてあげるというか。ね。それから先を私は大事になさらなければ、折角の示現活動がですね、神様の願いに答える事が出けんです。只あの人に勧められて一偏参った、おかげの泉を一冊買うたというだけじゃいけんのです。
 それからの皆さんの信心が大事なんです。そうしてです人間が助かって下さるとはどういう、今日私が申しますように、金光様の信心を頂いて、人間が助かると言う事はね、ほんどら温い、自分に都合の良い事ばかりが、次から次と起きて来るような。それこそまあ、のんびりモードちゅうと、こう今のこの非常な時局にです。言葉が当たらないかも知れませんけれどもです。とにかく不安のない心配のない。おかげでお金にも不自由する事のない、争いもない。
 おかげで病気もせんで済むような結構なおかげの中に日々助かって行くという事は、まず人間が助からなければ、そういうおかげは頂かれんのです。昨日は私は隣接の教会、また遠隔地からの教会。教会としての、教会の願いがちょうど六件ございました。その一にこれは(神棚の古い?)教会ですけれども、その教会が誕生して二十年になる。日頃おかげの泉を頂いて、大変おかげを頂いておる。そこでこの度は本部の中山亀太郎先生を、その記念祭に講師としてお出で頂く事になってる。ね。
 小さい町のまあ記念祭の、まあ一つの行事として、そのもう五十名でも百名でもないから、亀太郎先生のいわば、信心のない方達話を聞いてもらおうという話を、学校の校長先生にあの、心安しとられるから話された。ところがその全校の子供達に話してくれと言う事になって来た。もう大変有り難い事だと思わせて頂くんですけれども、信者さん方にそのことを申しましたら、そげな大げさなことをしなさるなら、お金がいくらあったっちゃ足らんですばいと。
 第一貴方講師のその旅費と、それからお礼だけでん大変な事ですばいと言うて、実はそこで行き詰まっておるというお届けでした。だからそれほどのお繰り合わせを願うて、もう本当にあの、それこそ講師の方の旅費、またはお礼だけで良かぐらいなら、こっちから送ってやろうごたる気が致しました。ね、けれどもそれではおかげになりませんから、まっ、お取次ぎをさせて頂く事に致しましたがです。これは夕べでした。宮崎の高千穂教会という教会があるそうです。
 そこの御信者さんに、二歳で何と心臓ガンか、肝臓ガンか。ガンで明日、昨日の事で明日明後日。ね、その手術がある。それで合楽の事を聞かれてです。その福岡の知った方に電話を掛けて来た。どうぞ合楽の先生にお取次ぎをお願いして下さいと言う事であった。けどもよくよく考えたらです。教会長先生が自分にども言わずにです、もう合楽教会に直接お取次ぎを願われなければ、ほんな事っちゃないと思うたから、今からあちらに、そういう風に電話を掛けますから、どうぞよろしくという事でございました。
 だから私が申しました。いやいや貴方の貴方のお取次ぎで良いですよと。わざわざ元気どるだんにそうなさらなくても。成程一つの筋道と言うならば、今日向こうの教会長先生が、なら合楽の教会長である私にお取次ぎを願うて実はこうこうでございます。私の方のまあ大事な熱心な信心をしておる人のお孫さんに当たる。だからよろしくお取次ぎをお願いしますというような、矢張りそれは筋道であるけれども、問題はこの頃はもう筋道とかそげな事はどうでも良い。
 おかげさえ頂きゃいいと、そういう方だったら先ずはおかげを受ける事なんだ。この辺のところも、最近の私の信心が変わったところです。ね、しかしその後は私が(触る?)だけでは出けない。今まではね、ただ助かりさえすれば良いであった。お礼に参って来られようが、もう来られまいが、そんな事は問題じゃなかった。そう言う事を一つのキッカケとして。いわゆる、本当になら教会長先生自身が助かられる。ね。
 それこそ(のんびりモード?)ではない、それこそ記念祭という有り難い年柄に当たっておってです、講師の方に対する信者さんとの対立があってです、そげな事をすんなら金がいくらあったっちゃ足らんといったような、その様な事ではそのいわば、まあ良い意味でのノンビリモードという事ではない。常日頃の信心が思われるのです。私はお道の信心は、すべての事をお粗末にしてはならない。ね、お粗末にすると言う事は、それをその使い道を知らないと言う事が、お粗末にする事だと頂いております。
 例えばここに鯛なら鯛の立派な鯛があると致しましょうか。ところがそれの焼き道、美味しく頂けれる道も知らん。これはこの鯛は美味しいちゅう話じゃが、どげんしたもんじゃろうかと言って、それがとうとうそうしておる内に腐ってしまうというなら、それがお粗末です。使い道を知らないと言う事。ね。例えば今日の教えを頂いてです。金光様の信心をさせて頂きながらです、ね、日柄方位を言うたり、ね、言うならば迷信的な事を言うような事であっては、こげな御無礼、お粗末な事はありません。
 これはもう天地に対する所のお粗末御無礼ですから。是でのんびりモードが次に生まれて来るはずがありません。ほんのら温い自分の都合の良い様な事だけが起きて来ると言う様なおかげになるはずがありません。ね。又(    )起きて来る、例えば様々な問題です。苦い問題もありゃね、辛い問題もある。けどもその苦い物を辛い物をです、私共が言うならば使いこなせれる、頂きこなせれるおかげを頂いた時に、初めてその苦い問題が、または辛い問題が言いや、言うならその事柄が生きて来る事になるのです。
 いや生きて来ると言う事は、それが力になるんです。それがお徳になるのです。そういう私は、ね、お粗末にしない生き方を身につけると言う事がです、私は金光様の信心は、先ず人間が助かると言う事は、そう言う事だと思うのです。ね、どうして自分の上だけこういう難儀な事が起こって来るだろうかと言うて、その難儀な事という風に見える。ね、昨日から頂きますように、信心させて頂く者は、肉眼を置いて心眼を開けと仰るが。心眼を開くと言う事は、そのまま人間が助かると言う事です。
 もうその人、ね、肉眼を置いて心眼を持って見る時にです。今まで苦しいとか情けないとかと言って、様々な問題が皆有り難いものであると言う事になって来るですから。ね、悪人蛇人と、例えば恐れ戦いておった金神様をです教祖の神様は、ね、それこそ知って向かえば命を取り、知らずに向かうても目を取るというほどしの恐い神様だと、その時代今でもやっぱりそう言いますね。
 金神ゆうこうを言うならば迷信しておると言う事が、言うなら普請作事の事にいたるまで、家相やら色んな事を言うのが、矢張り金神ゆうこうの節から来ておるのです。ね。教祖様とても、やっぱり知られなかった。そういう言うならば一般からはもう、ね、触らん神に祟りなしというように、恐れののかれておった神様をです、教祖の実意丁寧のお心が、どう見られたかと言うととにかく目を抜いたり、命まで取られるほどしの新たかな力を持ってござるならばです。
 その神様のお心を知って、お心に添う様な生き方にならせて頂いたら、又目も頂けるだろう、命もまた頂けれる程しの力を持ってござるに違いはないと感じられた所に、教祖の信心の素晴らしさがありますね。そして、次々と七墓気づく様な難儀な事が起こって来たけれどもです。ね、是は氏子の言うならば真が足りなかった、実意が足りなかった。ね、そこん所をもう平謝りに謝って、詫びに詫びて詫び抜かれてです。ね、
 どうぞ言うならばお向きを換えて下され、お向きを換えて下されと、そういう普通では悪人蛇人とまで言われるような金神様へ向かって、平身低頭その進んで行かれたと。真を尽くして行かれたと言う。そこに神様が愈々、本当に向きを換えられた時にはです、天地金乃神。もうそれこそ(じがん)あふれるばかりの神様。ね。もうただおかげやりたいの、一念の神様である。
 しかもその神様のおかげを、頂かなければ一日たりとも、生きて行く事も出けないほどしの、大変な神様であることが、お分かりになったのそこから、金光教が生まれておる訳です。例えばその難儀なら難儀というその問題をです。その実相というか、実態というか。ね、それを付き止めるという事が信心である。それを突き止め、突き止めして行く内にです、心の眼が開けて来るのです。ね、それを厄介なものにしない、それを粗末な、困った事にしない。ね。
 言うならば、この事のおかげで信心が出けますと言う様な生き方になって行きよる内に、心の眼が開けて来るんです。愈々心の眼が開けて来る時にです、もう一切のものが生きて来る。過去にどんなに、ね、忌まわしい言うならば今日までの商売がそうで、例えばあったに致しましてもです。その難儀であった忌まわしいと思うておったその事が全部生きて来る。そう言う事のおかげで今日の私がです、のんびりと言うならば良い事ばかりしか起きて来ない。ね、バタバタせんで済む。
 昨日私は日田から大黒様を二体持ってお参り、まあ見えた方が、日田の山奥の所です。ところが、そのもう本当に素晴らしい大黒様ですけれども、(    )の所がその、打出の小槌だけがコロッとかげとるとじゃん。これはあ打出の小槌のかげとる大黒様じゃいかんばい。すと、片一方んとはどうかち言うたら、(    )、下の。こうもうこりゃアンタどんこんされんじゃんのち。はっはっは。
 いやそんならもう、この頃から持って来とります、このほてい様ば親先生と思うちから、なら拝みますからと。ほれは見事なほてい様を(持って?売って?)来ちゃった。所が、ほてい様じゃいかんちゅう事を聞いてから、その大きな(旧家?)ですから、その探しよったら、その大黒様が出て来た。所がいっちょうは、(だい?)、たわらが取れてござる一つの(     )かげてござる。もうよくよくやっぱその腐のあるお家じゃったと思うんですよ、やっぱそげな風になってるです家庭が。ね。
 それでもうこれはほてい様だけでええ。そん時に私が頂いた事ですけれども。あのほてい様は内輪を持ってござるですね。あの、それこそ今日の御理解で言うと、もうそれこそバタバタせんでもよいおかげ。あの人は昨日初めて知りました。あの左内輪であちらあ、この頃もう、(つう痒うして?)左の手(      )と言うでしょう。あれはあの、バタバタせんで済むと言う事だそうです。
 左、右の(    )こう、あわんならんでしょう。所が左に内輪持っときゃもうゆっくり、こうやって扇ぎゃあいいでしょう。だからバタバタせんで済む。だからそういう、あのほてい様、だけんほてい様だけでん良かけれどもです。まあほてい様は親先生が、まあ裏に下がってからのんびりしてござる時だけの姿という事だから、ならこの大黒様をいっちょ二つば一つにしたらどうじゃろうかと私が申しました。
 だから二つば(     )に置いてから拝みなさい。はっはっは。片一方はたわらが取れてござる。片一方は立派なたわらに座ってござる。所が片一方んとは打出の小槌がコロッとかげとるそこだけが。いわゆる片一方じゃ両方の(       )があるけん、二つも合わせて、まあ賑やかな大黒様だなあち、はっはっは。けれども本当にあの、のんびりしてますよね。私は金光様の信心はね、本当にゆったりと、豊かなのんびりとしたね、もう(     )と言った様な、その信心ではなくてです。
 もうほんぞら温いね、もうそれこそ、暑くもなからなければ、寒くもない。ね。あえて言うて、心配になる事もない心に掛かる事もないというほどしのおかげを頂いた時です、金光教によって助かったという事が言えるのです。ね。それにはね例えば、ね。それこそ、使い勝手の良いのが良い家相じゃと言う様な、実際の事にですよ。ね、そりゃあおかげがもっと、こう普通でここで言うでしょうがどんな場合であっても。ね、使い勝手の良いのが良い家相だと頂けれる信心。ね。
 所が初めの間は、親先生はもう家相は見る事はいらんとか、何ことはいらんと言うけれども。昨日は
   ……(B面へ)………
 一昨日久留米の商工会議の商の会頭をしとられます、りゅうとさんの奥さんが、はじめの間は、選挙の事やら何やらでお参りしよりなさった。所がこの頃は自分の矢張り色んな難儀な問題を持って来られるようになった。写真を持って息子さんのお写真を、ね、あの、嫁さんの写真を持ってお伺いにやってある。だから私がまあこれは60点ぐらい。まあ、まあちょいと待ちなさい、まだ70点か75点位んとが来るばのち私が。そんならこれはもう断っときましょうち言うちから、その昨日一昨日帰られた。
 所が昨日久留米の原口さんという県会議員ですかね、原口(ひさつ?)さん。そこの所の奥さんから、ぜひ合楽に連れて参ってくれという話を受けて。そしてその方を導いてお参りをする事になっておった。所がお参りをするという寸前に、ちょっと何かが出けたそうですから、別な方をお道あの連れてそしてお供えやら、(お靴?)を買って見えとったから、それを持って参って見えたわけ。そしたら丁度表でねそこのながわ、中川建設の女社長さんのお婆さんですねと会われたんです。
 もう息子さん達が小学校から大学まで一緒だそうです。ね、そしたら貴方がたの〇〇さんに、(         )、嫁さんば知らせてくれち言うて来られるから、大丈夫かち。もうその時ハッと思うたち言うんですね。昨日(     )、もうちょっと待ちなさいち言わっしゃった。さあ所がそれを見てみた所が、良過ぎる(    )が、私はあげなん、あの同じ(     )でしょうがね、(     )もう見事な(    )さんです。もう、(   )学歴といい、もう。
 けどその前に、前の日に参って見えた時にです。先生どうぞいっちょもう(綺麗なのはもちろん?)、もう息子さんだけが(綺麗が良い)。嫁さんにゃいかん、それから頭が第一良うなさらにゃいけん。そして(でかい?)もない、いわゆる気の利いた(    )だち言うてから、そげな事言うてお願いしなさんなち私が。とにかく、親の都合の良かこつばっかりは、(      )。息子が幸せになるごたるような(   )をどうぞ、ほんにそうですね。したら、昨日改めてね、その事を言われるんですよ。
 どうぞ一つ娘があの息子が本当に幸せになるように。後はもう(       )なんか申しませんという事でした。
 ところがその事、その写真をですね、(        )、それが今度の5月の(    )写真じゃった。実は今度の16日、それが教会なんです。朝の内に大祓い、大祓いして、してもらった。(9月に?)に、大きなお家が出けて建っております。それで(      )ような、(と、家です?)。ね、けれどももう、もう(        )という意味に今日の御理解から言うとです。そういう意味においてもお話させて頂いた事でしたけれども、その、(      )から、持って参って来られるところを(        )。
 そして、御神意を頂いたら、75点ぐらいな。もう(    )、忙しいアンタが世話をして下さい、(       )というような事になって来た。本当もう、(     )のんびりしたおかげでしょうが。ね、もうその、矢張り何でんですね、それこそ(       )とか、(    )じゃなくてです。自分の心というものを先ず(     )事のための(     )、もう心がピシャーッと楽になっておるです。楽になったら親先生の前にも言われた通りのおかげに、明くる日はもうなって。もちろん(     )問題はないぐらいにすらある。ね。
 もう(      )まで、親先生から(     )とこう、言うて頂いたから、(嘆くのをめげてしまう)というような事です。ね。心の信心によって頂くおかげというのは、そういうです、もう無理のない、それこそ只今の合楽で、いわゆる奇跡が現れておるというところを、高いところから低いところへ水が流れるような、(     )を持ってです。おかげが現れて来るけれども、でも、そういうおかげを、んなら頂いただけ。
 (    )もろうただけといったような事ではなくて、これからも、家も建て(      )ね、おかげの泉も買うて(        )何ていう事でなかったけれども、これから、(         )も、一つ買うてもらわんならん、また(      )広げてもらわんならんと言うて、まあ(    )され、合楽示現活動の事を、まあ聞いてもらったんです。じゃないと、アンタ自身が助からない。
 教えを頂くという事は、(   )と言いよる間は、とてもそれは、大変だったと思います。問題は、(息子?)が幸せになる相手を、(      )なったら、もう誰んなるでしょうが、それが助かり。それが、その息子の身の上の事だけではない、一日が大変(私の頂けれる?)というね。その、言うならば〇〇教会の、その記念祭じゃないですけれども。ね。そういう素晴らしい、片一方の働きがありよる。
 校長先生がどげんこげん、言うなら学校のこれだけ、全部の学生に聞かせて欲しいというような、素晴らしい神様のごひれいをそこに感じるけれども。ね、それを向かえるには、旅費もいりゃ、お礼もいる。それに、行き詰まっておるといったような事になって良かろうはずがないです。こっちは、合楽の場合はおかげを頂いてという(    )です。もう、おかげが繋がってる。
 または、困ったというような場合であっても、前後の事を思うと、いや、これもやはりおかげだと思い通して行く内に心の眼が開けて来るんです。困った事はない、願いと思いよる事が、あれは道を(        )家を建てよる。(                   )あれで、体が健康になったというように、そういう日々足につけ、自分の血に肉にして行こうという生き方。そして、それこそ(    )さんじゃないけれども、バタバタせんで済むようなおかげ。
 火の行、水の行と言った様な行じゃなくてです。本当にそりゃもう、まあ言うならばお昼参りとか、朝参りぐらいな事が修行と言うなら修行です。心の上に(    )の行というのは、一切を神愛として有り難く受けて行くという事。そこの所がです、心の眼を開かせてもらって分かるのです。ね。火のお照らしなさる日に良い悪いはないと思えという、(最後にありますよね?)。私共の日常生活に、それがどう言う様な事があるかも分かりませんけれども、決してそういう時には良い悪いはないという、皆おかげじゃという頂き方が出けた時、金光様の御信心が本当に身についたと言う事になるのです。